2012年4月18日水曜日

乱読のすすめ51-「チャイコフスキーが なぜか好き」




   4月16日のしんぶん赤旗の文化欄で、ロシア文学者の亀山郁夫さんの新刊「チャイコフスキーがなぜか好き」(PHP新書)が紹介されていました。
   タイトルが自分の気持ちにぴったりだったので、すぐに国会の書店で手に入れ、その日のうちに読み終えました。
   チャイコフスキーというより、ロシア音楽全体の解説書で、亀山郁夫さんらしいロシアの歴史と文化にたいする深い愛着と、対象にがっぷり組み合う気迫を感じました。もちろん亀山さんにとって重要な位置をしめるのはチャイコフスキー。10歳のとき、はじめて「くるみ割り人形」を聴いてから、ロシア音楽への熱中がはじまったといいます。

   わたしの場合、チャイコフスキー以外のロシア音楽などよくわかりません。「チャイコフスキーがなぜか好き」なのも、子どものころ、母がレコードでチャイコフスキーの「悲愴」をうっとりして聴いているのを見ていたからです。なんでも、初恋の人の思い出の曲だとか…。

 
  
    昭和17年、母は京都、木屋町のフランソワという喫茶店で働いていました。19歳のときです。そこに旧制第三高等学校の学生、Fさんがときどきやってきて、チャイコフスキーの「悲愴」を聴きながら静かにコーヒーを飲んでいました。どこか影のある端正な顔立ちの青年に母は一目ぼれ。中学しか出ていない母でしたが、ちょっと美人だったのか、やがて二人は恋仲に…。

   Fさんは、神戸と九州を結ぶ汽船会社の社長さんの息子、母は貧しい家庭の一人娘でした。しかし、Fさんのお母さんが大変理解のある人で、母を可愛がり、二人の婚約も認めてくれました。

   ところが戦火が激しくなるなか、Fさんにも召集令状がきます…。結婚の約束をして分かれた二人。その1年後、帰りを待ちわびる母のもとに、Fさん戦死の知らせが届きました。

   戦後の混乱のなかで、母はある男性と結婚しました。そしてその男性の子どもをお腹に宿したとき、なんと復員服のFさんがたずねてきたのです。戦死は誤報でした。Fさんは、離婚して自分と一緒になってほしい、お腹の子どもも自分が育てるからと母に泣いて頼んだそうです。しかし、母は断るしかありませんでした。

   それから母の人生には色んなことがありました。2度の離婚を経験し、女手ひとつで男の子4人を育て、65歳で亡くなりました。
   汽船会社の社長になったFさんも、2度、離婚。最後は独身のまま、他界されました。

   チャイコフスキーの郷愁的な音楽を聴くたび、Fさんと母の叶わなかった恋をおもうのです。