弱肉強食、自己責任を説く新自由主義の先駆者、イギリスの元首相サッチャー。その政権末期、人頭税(お金持ちも低所得者も一律の税金を払う制度)に反対する国民の声に対して、サッチャーはこう言い放ちます。
「私は上流階級出身ではなく、貧しい商家の娘から、自分の努力でここまでやってきました。みなさんも、やればできるはず。できるのにやらないほうが悪いのです」
原題は「THE IRON LADY」(鉄の女)。サッチャーの家族への思いや内面が描かれていますが、メリル・ストリープの名演技にもかかわらず、サッチャーの人間味が伝わってきません。邦題の「涙」は余計です。
映画をみて、ふとおもったのは、貧しい家庭に育ちながらも学歴・教養を身につけ、社会的地位を獲得した人は、二通りの人間にわかれるのではないかということでした。
1つは、自分が苦労した経験から貧困のない社会を理想と考える人。なんらかの社会運動に参加したり、少なくとも心情的には社会の改良、改革をのぞみます。
もう1つは、むしろ弱肉強食を肯定する人。「自分は努力して貧困から這い上がった」という成功体験をもとに、他人が貧困にあるのは努力が足りないから、自己責任だと責めるようになります。
サッチャーは後者の代表といえます。彼女は貧しい雑貨商の家に生まれました。同世代の女の子たちが遊びに行くのを横目に、店の手伝いをしながら猛勉強して、オックスフォード大学に合格しました。大学時代に新自由主義的なハイエクの経済学に心酔し、その後、映画のセリフどおり「努力して」首相にまでのぼりつめました。
サッチャーにとって、「理屈は後から付いてきた」のではないかとおもいます。
彼女自身の「私は勝利者、かれらは敗北者」「自助努力と自己責任が重要」「競争こそ美学」といった人生観が先にあり、それに合うような哲学や経済学をあとから身に付けたのではないか。それが<たまたま>新自由主義だったのではないか。
ようするに、なんのことはない、サッチャーがイギリス国民に押し付けたかったのは、政策というより、自分の人生観だったのではないでしょうか。
もっとも、サッチャーの根本的なまちがいは、どんな人間も「自分の努力」だけで今があるのではなく、たくさんの人々に助けられて今があるという当たり前の事実に気づかなかったことかもしれません。