2013年9月16日月曜日

乱読のすすめ94-「敬老の日」というけれど












昨日は秋田県大仙市の市議選応援。厳しいたたかいですが、何としても2議席を獲得してほしい。
第一声の演説に集まってくれたのは、ほとんどが高齢者の方々。終ってから握手をしたとき、祈るようなお顔で「年寄りを見捨てないで」と言ったおばあちゃんがいました。

「敬老の日」というけれど、実際は世代間対立を煽りながら、「老人バッシング」が続いてきているのでないか。...

「高齢者の社会保障費を現役世代が負担させられている」「現在の20代が将来受け取れる社会保障給付はいまの60代の数分の一」などと「世代間格差」を意図的に宣伝し、現役世代の不満を煽りながら、高齢者に肩身の狭い思いをさせ、さまざまな負担増を押し付ける。この十年来、そんなやり方が繰り返されてきました。
最近は、「高齢者はみんな金持ち。ため込むから景気がよくならない。資産を吐き出させろ」などと、「(死んだときに遺した資産に課税する)死亡消費税」という荒唐無稽な話まで飛び出す始末です。

根本矛盾である所得格差の問題を、「世代間格差」でごまかす議論ですが、危険なのは、それを鵜呑みにした若者の不満が高齢者攻撃に向かいつつあることです。
「若者を殺すのは誰か?」(城滋幸・扶桑社新書)など、高齢者=加害者、若者=被害者といった単純図式を植え付ける本が書店に並ぶようになりましたし、ネットの掲示板でも、「オレオレ詐欺と振り込め詐欺は、最高の所得分配だ」「老人ホームなどいらない。70歳以上の老人は早く逝去してください」「そろそろ老人狩りだ」など、胸がわるくなるような若者の書き込みがはんらんしています。在日外国人排斥と同じように、ここでも自分たちの置かれた閉塞感を、高齢者を攻撃することで発散しようとしているのではないか。

お年寄りを大事にする心優しい若者たちもたくさんいてくれるので、一時的な現象で終わると信じていますが、分断、対立を煽る連中は許せません。

老婆心(ろうばしん)という言葉の語源は、中国の仏教書からきているそうですが、日本では「姥捨て山」伝説によって広まったといわれています。
村の一人の男が、年老いた母を背負って山に捨てに行く途中。背中の老婆がときどき木の枝を折っているのに気が付きます。男は母が捨てられたあと一人で山を降りられるよう目印をつくっているのだと思いました。山の頂につき、母をおいて帰ろうとしたとき、母はいいました。「お前が帰り道を間違えないように枝を折って目印をつけておいたよ。それをたよりに里にお帰り」。自分が捨てられるのに、なおわが子のことを心配する母の心に男は号泣し、ふたたび母を背負って山を降りたのでした。

「年寄りを見捨てないで」と言ったおばあちゃんも、もちろん一番気になっているのは自分のことよりお孫さんの将来でしょう。対立を煽るのではなく、どちらにも手をさしのべるのが政治の役割ではないでしょうか。